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今からでも遅くないミッドナイト
未発表音源集『ソングス・フロム・ジ・アンダーグラウンド』からの『ミニッツ・トゥ・ミッドナイト』再解釈

『SONGS FROM THE UNDERGROUND』/LINKIN PARK

 

とっておきにしろお蔵出しにしろマル秘報告にしろ、これまで出さずにおいたのにはそれ相応の理由があるはずで、そう考えると未発表曲集の類は軽妙にスルーしちゃっていいかな、と普段ならば思うところだが、相手がリンキン・パークとなると話は別だ。
 
何しろデビュー当初から何もかもが完成されていたバンドである。シングル曲もアルバムもライヴ・パフォーマンスもPVも、最初から新人らしい危なっかしさなど皆無で、登場時から彼らはすでに完成品だった。その背後には、デビューへとたどり着くまでに40以上のレコード会社から契約を断られた、という苦難の歴史があるというが、あの衝撃のデビュー作『ハイブリッド・セオリー』の圧倒的成熟度と引き替えにするには、それくらいでは全然足りない。あらためて人間というのは不平等にできていると思う。

そのうえ、大ブレイクの後に満を持して放たれたセカンド『メテオラ』では、さらなる完成度の向上を計るという貪欲さ。そんな無茶な願いが許されて良いものですかと、無神論者ならではの軽快さで突発的に何らかの神に訴えたくもなるが、彼らは容赦なく一段上のレベルへと到達してみせた。しかもそのレベルアップの質がこのうえなく理想的で、前作ファンの期待を一身に引き受けたうえで新境地をも見せるという、誰もが望むとおり斜め上方向への飛躍であったからたまらない。

だがこの「完成の向こう側」の光景を見せた『メテオラ』という作品が、ファンをより貪欲にしてしまったのも事実だろう。それは普通に考えれば充分に完成度の高いファーストを進化の「過程」へと格下げし、この先にも永遠に上位ステージが用意されているはずだという、ある種ユートピア的な幻想を聴き手に抱かせた。だからこそ、大胆に変革を打ち出したサード『ミニッツ・トゥ・ミッドナイト』における聴き手側の混乱が巻き起こったと言ってもいい。

ファーストからセカンドへと順当な進化を見せたとはいえ、リンキン・パークとはそもそも、何をやってもやったはしから完成してしまうアーティストである。それが何を意味するかといえば、つまりは「過程が見えにくい」ということで、アーティスト側に何らかの変化が訪れたとき、聴き手はそこへ至る過程を理解できずに置いてけぼりをくらう危険性が高い。実際、『メテオラ』と『ミニッツ~』の行間に取り残された聴き手は少なくなかったように思うし、僕もその一人だった。だが今になって、やっと『ミニッツ~』の地平から次作への期待を募らせる地点にまでたどり着くことができたと感じている。それは間違いなく、先日リリースされた未発表音源集『ソングス・フロム・ジ・アンダーグラウンド』を聴いたおかげである。

『ソングス~』に収められた全8曲中、その制作時期が記されているのは、2008年のライヴ音源2曲を除けば、1999年のデモ音源“デディケイテッド”1曲のみ。だがサマソニ06で新曲として演奏された“クワーティ”と1曲目の“アナウンスメント・サーヴィス・パブリック”に関しては、プロデューサーのクレジットにリック・ルービンの名前があることから、『ミニッツ~』用に録音された楽曲であることがわかる。他3曲はいよいよ正体不明なのだが、いずれも洗練よりはヘヴィネスを強調した音像で、『メテオラ』よりは『ハイブリッド~』に近い質感がある。あるいはこれらの楽曲を磨けば『メテオラ』になるのかもしれないが、いずれにしろ『ミニッツ~』からは距離のある楽曲が並んでいる。

さて問題は、そこに何を読み取るかである。もちろん寄せ集めの楽曲であることに変わりはないのだが、そこは策士マイク・シノダのこと、数ある未発表曲の中から選び抜かれたこの並びには、何らかの意図が隠されていると見るのが妥当だろう。楽曲の制作時期にかかわらず、この時期にこの選曲で来たことに意味がある。

一聴して耳を捉えるのが、ライヴ2曲を除く未発表曲群に共通する「激しさ」と「ラップの増量」で、それはまるで『ミニッツ~』に対して寄せられた「ヘヴィさが足りない」「マイクのラップが少ない」という2大批判への返答であるようにも思える。つまりこの『ソングス~』という作品は、全体として『ミニッツ~』に取り残されたファン達へのエクスキューズとして機能しており、ある意味では『ミニッツ~』で排除した部分を的確に補完するために発表された作品であるという見方もできる。

だがそれは、けっして後ろ向きな反省の弁であるのみではない。もちろんそういう側面もあるだろうが、一方ではこの作品によって、『ミニッツ~』で彼らがあえて選び取った選択肢が、完全に前向きなものであったことが逆に証明されたとも言えるからだ。ここに収められているのは『メテオラ』から『ハイブリッド~』へと回帰するような楽曲群であって、その2作からはみ出す要素はどこにも見当たらない。それは『メテオラ』後に作られたと思われる“クワーティ”に関しても当てはまり、だからこそこの曲は『ミニッツ~』から省かれたとも言える。

つまりは、彼らが『メテオラ』を聴いたファンの望んでいた方向性をトレースした作品を作っていたとしたら、たとえばこの『ソングス~』のように、『ハイブリッド~』と『メテオラ』の中間を揺れ動く楽曲しか作れなかったということで、それらはいずれも、後ろ向きな縮小再生産にしかならない。もちろん『ソングス~』に収められた楽曲は、未発表曲にあるまじきクオリティを備えており、充分にファン必携レベルのものである。しかしこれは同時に、「『ハイブリッド~』から『メテオラ』へと通じてきた道の先には、もはや折り返し地点しかなかった」という事実を証明する一枚でもある。

だとすれば当然、「ならば『メテオラ』の限界点とは何だったのか?」という疑問が湧く。あの先に何もなかったと言うならば、すでに少なくとも『メテオラ』の一端は限界に触れていたということになるわけで、その限界こそが彼らを『ミニッツ~』へ走らせたと考えられる。そんな意地悪な目線から『メテオラ』を捉え直してみると、そこにはひとつの重要な問題点が浮かび上がってくる。それは「緩急」の問題である。

『メテオラ』と『ミニッツ~』を比べるとよくわかるが、『メテオラ』の前半6曲は、いずれもミドルテンポの楽曲が綺麗に並んでいる。静かに始まって徐々に盛り上がってゆく劇的な楽曲構成も似通っており、マイクのラップとチェスターの歌のバランスも、それぞれの楽曲内でかなり均等に振りわけられている。つまりはそれがリンキン・パークというバンドの「黄金パターン」だと示しているかのような堂々たる連打で、だからこそそこには一定のマンネリズムが漂う。それはひとことで言えば、彼らのデビュー作のタイトルでもあり、デビュー前に名乗っていたバンド名でもあるところの「ハイブリッド・セオリー」ということになるのかもしれない。彼らの「静と動」「ラップと歌」という対立項を1曲の中にバランスよく混成させる技術とセンスが、その他大勢のラップ・メタル/ミクスチャー系バンドに比べて圧倒的に優れていたのは、もはや疑いの余地がない。

そしてあの作品の鍵を握っていたのは、7曲目にようやく現れる疾走曲“フェイント”であり、そこからアルバムの空気がガラッと変わる。静かで速い“ブレイキング・ザ・ハビット”や、荘厳なラップ曲“ノーバディズ・リスニング”といった新境地が、聴後に多彩な印象を残す。そのため前半を聴いた時点で抱いた「似たような曲が多い」という大雑把な印象は、聴き終えてみれば毎度すっかり忘れてしまうのだが、これはやはり重大な問題であって、彼ら自身も、そして『ミニッツ~』のプロデュースを担当したリック・ルービンも、そこには真っ先に気づいていたはずだ。リックは非常に客観的な視点を持つプロデューサーであり、ミュージシャン目線というよりは、聴き手サイドからのアドバイスを的確に与える人という印象がある。何よりもまず、問題点のあぶり出しがうまいプロデューサーである。それは彼が手掛けたメタリカの『デス・マグネティック』を聴くとよくわかる。

かといって、『メテオラ』の前半に緩急がないというわけではない。先に述べた黄金パターンの楽曲には、むしろ劇的な展開がセッティングされている。だがそれはあくまでも楽曲内部における展開であって、アルバム一枚を通して聴いたときには、前半の「楽曲の並び」が緩急に乏しいと感じるということだ。いくら大胆な展開の楽曲が並んでいても、似た展開の楽曲が続けば全体像としては平板に映る。

一方で『ミニッツ~』の場合、楽曲単位ではごくシンプルなものが並んでいる。それぞれの楽曲が静と動のどちらかに振り切れていて、そこには過去作に比べてハイブリッドな感触は少ない。各要素が楽曲ごとにきっちり分離しており、各曲の役割分担が明確である。しかし前半の5曲で顕著なように、静/動/静/動/静と、明らかに意図的に静と動の楽曲が交互に配置されているため、通して聴いたときに絶妙な起伏が生まれ、そこで初めてハイブリッドな感覚を味わうことができる仕組みになっている。つまり楽曲の内部におけるミクスチャーではなく、アルバム全体として見たときに、各楽曲の並び具合がミクスチャーでありハイブリッドなのである。

それはこれまでに比べ、「ひとまわり大きな緩急」と言えるかもしれない。そしてその大きな展開のうねりこそが、『メテオラ』前半の反省点を踏まえた『ミニッツ~』の狙いだったのではないか。そうやってアルバム全体を俯瞰してみることで、初めて作品の狙いと凄さが見えてくる。『ミニッツ~』とは、きっとそういうアルバムなのである。結果としてその全体像を把握するにはかなりの聴き込みを要するため、チェスターの歌という核心が剥き出しでありながら、作品としての本質的魅力には意外とたどり着きにくいという側面もある。だがアルバム単位で捉えたときの完成度はさらなる高みへ達していたと、『ソングス~』を経由した今なら言える。

先ごろiTunesで先行リリースされた新曲“ニュー・ディヴァイド”は、チェスターの歌に焦点をあてた『ミニッツ~』の流れを順当に汲む楽曲である。だが彼らの場合、これまで述べてきたように先のことはまったく読めず、だからこそ、この先に待ちうける新作に期待は募る。完成へと向かう道に終わりはない。

 

 

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