ダメ出しの業火が裏面から炙りだす笑いの多様性
『笑いのゴッドファーザー オレたちに頭を下げさせろ』そして『三四郎のオールナイトニッポン0』
果たしてお笑い芸人に、今さら「型どおりの技術」を求めるべきなのかどうか、「上手さ」と「笑い」の質と量は比例するのかどうか。そういった問題に関して、お笑いコンテストの結果を見るたびに考えさせられる。もちろん重要なのは「面白いかどうか」のほうであって、「型」も「技術」も、面白ければ別になくたっていっこうに構わない。しかし「型どおりの技術」を持たない人の前には、常に困難な壁が立ちはだかる。その大半は、「わからない」のひとことで片づけられてしまう。
そういう意味で、「型どおりの技術」とは世に出るためのパスポートではあるのだが、そこで手に入る「わかりやすさ」と引き換えに、個性を失ってしまうという事態もまた頻繁に見かける。それはお笑いの世界に限らず、エンターテインメントや芸術のあらゆる領域で起こっていることだ。それどころか、スポーツの世界にすら当てはまる。野茂英雄や王貞治の「型破りな」フォームを思い浮かべてみるといい。既存の尺度にハマらなかったことが、どれだけ多くの人間に喜びをもたらしたか。
先日放送された『笑いのゴッドファーザー オレたちに頭を下げさせろ』は、お笑い界の大御所「ゴッドファーザー」たちが、若手芸人に「ダメ出し」をするという実験的なスタイルのネタ番組である。といっても、それは普段のコンテスト等における通常の審査風景でもあるから、ここでは「審査」ではなく厳しい「ダメ出し」であるというところに、番組のアイデンティティがあると思ったほうがいいだろう。
つまり、わざわざ「ゴッドファーザー」(西川きよし、オール巨人、ヒロミ、NSC教官で演出家の湊裕美子)たちを召喚したのだから、ネタをやる芸人たちには、ちゃんと怒られてもらわないと番組として成立しない。ここには、「怒られることで番組が盛り上がる」というねじれた図式でエンターテインメントが成り立っている。タイトルでは、「ゴッドファーザーたちに頭を下げさせる」というコンセプトを謳っているが、番組に緊張感をもたらしてくれるのは、むしろネタ芸人たちがコテンパンに怒られるシーンのほうだろう。
「ゴッドファーザー」たちからは終始、「姿勢が悪い」「声を張れ」「野心が足りない」等の、今どき誰にでも当てはまるような、つまり誰にでも当てはまるということはそれぞれの個性を無視した苦言が続出する。こうやって個性というものは殺されていって、ただ上手いだけの人ばかりが上から可愛がられていくんだな、という見本のような状況であり、こういった体育会系のダメ出しは、ネタの内容について何も言うべきことを見つけられなかった人が言う常套句でもある。
特に三四郎に対しては全体に非常に厳しかった印象があって、彼らの漫才は小宮の滑舌の悪さを前提として組み立てたものであるのが誰の目にも明らかであるにもかかわらず、「何を言ってるかわからない」という、これまで彼らが様々な人たちに言われ続けてきたであろうダメ出しを喰らうことになった。
ただこの番組は、先にも書いたように「怒られる」ことを前提とした番組であるから、怒られるほうが明らかに芸人としては「おいしい」し、番組への貢献度は高い。実際のところ、こうして大御所から理不尽なダメ出しを喰らったときに、ちゃんと不服そうなツラを貫いていたのは三四郎だけだったわけで、あの小宮の表情を観て、こいつらは嘘がない、信頼できる、と感じたお笑いファンは多いんじゃないか。例によって、ただ目つきが悪いだけかもしれないのだが、あの小宮の表情こそが番組のハイライトだったといっても過言ではないだろう。
たしかに昔は、「大事なことは大声でハッキリ言え」というのが常識だった。しかし最近では、「大事なことは小声で言うことで、聴き手に耳を傾けさせろ」という説も、一方ではもてはやされている。つまり物事には色々な正解があるということだ。だから「滑舌が悪いほうが積極的に聴いてもらえる」というのも、もちろん正解のひとつかもしれなくて、それが今のところ三四郎にとって有効な武器になっているのは間違いない。彼らの面白さの本質は、そういう表面的なことよりも、もっと根底にある鋭利なワードセンスだと常々感じてはいるのだが、やはりキャラクターとしての「滑舌の悪さ」は、入口として明確に機能している。
さらに言えば、もしもネタ中に台詞を噛んだならば、噛まないように練習するよりも、噛んだことを面白く処理したり利用すらしてみせる新たな方法を考えたほうが、お笑い的なスタンスとしてよっぽど魅力的なのではないか。笑いには、どんな失策もすべてエンターテインメントに昇華してみせるという懐の深さがあって、三四郎もそういうレベルのことをやっている。
むしろこの番組で三四郎が披露したネタに関して語られるべきは、今さら滑舌なんて表面的な部分ではなく、たとえば「ボケとツッコミがいつの間にか入れ替わるスタイルが、効果的に笑いにつながっているかどうか」というようなことなんじゃないか。あるいは「この審査員を前に、なぜ(いくらヒット曲とはいえ、世代的に知らないであろう)B'zを選曲したのか」という点。そこはやっぱり賛否あるはずで。
と、ここまでが『笑いのゴッドファーザー』という番組を単体で観た時点で感じたことだったわけだが、その翌日放送された、『三四郎のオールナイトニッポン0』(本編+ポッドキャスト)を聴くと、番組の感触が半分くらい変わった。こういうところがラジオの面白さでもある。
そこで三四郎の相田は『笑いのゴッドファーザー』に触れ、「ウチらあんまり怒られたっていう感覚じゃなかった」「むしろすごい褒められた感じ」と語っている。放送ではカットされた部分において、実はオール巨人やヒロミに結構褒められていたというのである。
オール巨人は三四郎の小宮に対して、「それでええんちゃう?」「滑舌べつに良くなくてもええで」「そのままでええで」と発言し、島田紳助やウーマンラッシュアワー村本ら言葉が聴き取りにくい芸人の成功例を挙げつつ、「お客さんがついてくるから」「耳が慣れてくるから」とエールを送ったという。そういえば放送では、オール巨人のコメントは「本当はハッキリ聞こえたほうがいいんですよね」と言ったところでカットされている感じだったのだが、あの流れで褒めていたというのは予想外だった。
ここは「なぜそこをカットするのか」と思うくらい良質な箇所だと思うが、尺の問題か、あるいは「視聴者はそういった有効なアドバイスよりも、緊張感のあるプロレスを求めている」という判断による編集か。三四郎には明らかにヒールの役割が求められる状況であったから、制作サイドが編集によってある種の方向づけをする気持ちはよくわかる。ただし、むしろオール巨人にとって少し損になっているのではないかとは思う。
さらにはヒロミも、カットされた部分で小宮について、「こんないい素材いないよ」「これ売れるよ」と言っていたという。こうなってくると編集の意図は明らかだが、その演出によって番組の緊張度が増し、三四郎が強烈な爪痕を残した、というのもまた事実。ただこの話は、特に三四郎ファンの人たちは絶対に知っておいたほうがいいと思うので、聴いてない人は今からでも聴けるポッドキャストだけでも聴いてみることを強くお勧めする。
ちなみに、オール巨人に本当にダメ出しされたのは実は相田のほうで、撫で肩を生かすためにカーディガンを着用している相田に対し、「ジャケット忘れてきたんか?」と問い詰めた結果、どういうわけか相田は事務所もまったく違うオール巨人師匠にジャケットを買ってもらうことになった、という話の展開には感動すら覚える。
この『笑いのゴッドファーザー』という番組は、実質的には、「ネタをやる芸人にダメ出しをする審査員にダメ出しをする視聴者」というメタな構造になっている。それはよくあるお笑いコンテストに対するSNSの反応、という形ですでにお馴染みではあるわけだが、ここまでアドバイスを「ダメ出し」に特化するとその構造が際立ってよく見えてくるのが面白い。
そういう意味でこれは興味深い番組であり、枠に押し込めるような審査員のアドバイス(いや実際にはもっと柔軟なことも言っているようだがカットされている)が視聴者の多様な反論を誘発することによって、結果として様々な角度の意見が自由に飛び交う状況が生み出されるといい。