top of page

わからなさ青天井、なのにけっきょく蟻地獄
メタリカ『デス・マグネティック』は何がどうなってこうなのか?

『DEATH MAGNETIC』/METALLICA

 

新譜を出すたびコンスタントに聴き手を混乱の渦に陥れてくれる蟻地獄系アーティストというのが少なからずいて、こちらは好むと好まざるとにかかわらず進んで穴ぼこにはまり込んであーだこーだ言いつつ結局とりこ。メタリカは間違いなくその部類の小悪魔だと思う。いや売れたサイズから言うと小悪魔どころかすっかり大魔神くらいなのだが、毎度繰り出してくる実験の度合いが微妙に思わせぶりで変に可愛げさえ感じさせてしまうところが小悪魔。いっそプライマル・スクリームくらい節操なくジャンル横断的に右往左往してくれると別れるにしろ復縁するにしろ潔いのだが、メタリカの場合名前からしてメタルといういちジャンルを背負ってしまっているぶんタチが悪い。もはや彼らの一挙手一投足でメタルというジャンル丸ごとゴゴゴと大陸移動するまでになって、気づけば足場を失い海に沈んだバンドは数知れず――。

メタリカの新作『デス・マグネティック』は、見かけ上あまり問題作に見えない問題作であるという意味で、これまで以上に小悪魔的であると言える。前作『セイント・アンガー』のような明確な実験性はないし、外見上はコアファンの間で全盛期と言われ続けてきた2nd~4thあたりの枠組みに収まっているため、原点回帰作として無理なく楽しみ懐かしんで聴くという方法もあるだろう。前評判を聞く限りでは僕も、遠い目をしてありもしない縁側でありもしない思い出にでも浸りつつ、渋めのお茶におせんべいでも浸しながらすっかり和むつもりだった。しかし聴いてみればそこに響くのは安易に老後の楽しみを許してくれるメタリカではなく、そもそも僕は老後ではなく、結局のところ混乱しつつ延々と聴き続けてしまう無間地獄。いや天国か? 

そう、地獄だか天国だかわからないのである。好きなんだか嫌いなんだか、いくら聴いてもわからない。過去メタリカには何度もそんな思いをさせられてきたけれど、例えばあの世界を震撼させた5th『メタリカ』のときの、まったくタイプでもなんでもないのに聴けば聴くほど深みにはまっていき、気がつけば「なんか嫌い」が「大好き」にすっかり反転しているような愛情発生のプロセスはない。かといって『ロード』『リロード』のときの、「雰囲気は『メタリカ』に似ているからきっと聴き込めば良くなるはずだ、と思いきや全然」という期待はずれ感もなく、前作『セイント・アンガー』の「第一印象が最大値。やがて飽きる」という出オチ感とも違う。
 
しかし自分が女子高生だと仮定して、このわからなさを親友に相談してみれば、「あんたそれ、なんだかんだ言って結局好きなんじゃん。自慢かよ」とか言い切られてしまうタイプの感覚であるのだけがわかっている。いや、だからこそわからない。女子高生ではないので。
 
そのわからなさの理由はなんなのか? 根本的な好き嫌いの判断さえ迷わせる主たる理由は? 
 
それはおそらく外見と内面のギャップである。それこそが小悪魔の絶対条件と言える。とはいえルックスと音楽性の差異ではない。彼らの場合、そこは驚くほど一致している。あくまでも音楽的な意味における「外見」と「内面」のことをここでは指す。 

『デス・マグネティック』は、「初期メタリカ流スラッシュ・メタルへの原点回帰作」であり「『ロード』以降のメタリカ」であり「これまでの集大成」であり「実験作」である。こう書くとすっかり矛盾しているように見えるが、すべて部分的に当てはまる。実際、アルバムを聴いている最中に抱く感想は、聴き手側の視点の置きどころによりそのつど異なる印象で、その流動性が全体のイメージを見えにくくしている。
 
楽曲の枠組みは「初期メタリカ流スラッシュ・メタル」だが、中身を構成するメロディの質感は「『ロード』以降のメタリカ」であり、そういう意味では「これまでの集大成」とも言えるが、両者を組み合わせた思い切りの良さは、かつてない「実験作」とも呼べる。
 
一聴した段階では外見的印象であるところの往年の楽曲構成に身を任せる感じで妙に安心感を覚えるのだが、繰り返し聴いていくと、その内面を埋め尽くすフレーズごとのメロディに実はかつてほどの哀感がないことに耳が向くようになり、最終的には両者の組み合わせがもたらす違和感が残るこの不思議。となると問題の核心はやはり内面を司るメロディの部分で、実はアルバム全体の雰囲気を決めるのは楽曲構成ではなくて旋律の方向性なのだ。少なくとも彼らの場合は。
 
かつてのメタリカが発散していた哀しみは、ただ打ちひしがれるしかないほどに圧倒的なものだった。今になってみれば、あれだけの音楽的変貌を遂げた大出世作『メタリカ』を僕が最終的に受け入れることができたのは、楽曲の形こそ違えど、その根底に流れる哀感が不変であったからだ。それどころか、構成を単純化したことにより哀しみはむしろ際だっていて、それはついに救いようのない絶望感にまで至るほどの美しさを見せた。
 
だが次作『ロード』以降、彼らはその持ち前の哀感フレーズを大幅減させることになる。『メタリカ』という不世出の名作において、哀しみを絶望にまで究極進化させてしまった以上、そこからの脱却は必然的な方向転換だったのだと今にして思う。

哀しみとは、音楽に限らずあらゆる芸術やエンターテイメントが表現する、もっともポピュラーな感情なのだと思う。なんだかんだ言っても世の中は「泣ける小説」「泣けるドラマ」「泣けるバラード」「全米が泣いた」などなど今や何もかもが号泣至上主義で、あらゆる作品への評価が「どれくらい泣けるか」の一点で下される。もちろん国によってはそうでないところもたくさんあって、演歌の旋律や義理人情を根本に持つ日本人が特に泣き虫という側面もあるのだろうが、それにしても一面的すぎやしないだろうか。
 
かく言う僕も決してそういうものが嫌いではなく、ただ同等に笑いや怒りやその他の分別不能な感情表現も好きなだけで、実のところ今作には圧倒的哀感の復活を期待していたことをここに白状したい。だが同時に、『ロード』以降のメタリカが悲哀の外へと表現の幅を拡大しようと闘ってきた姿ももちろん承知していて、それがどのような形で結実していくのかという興味もあった。今作に関してはこの両面待ちをしていたファンが結構多いと思うが、結果としてはどちらも半々で、だからこそバランスが取れていて、しかしどうも思い切りが悪いような印象もある。
 
いまメタリカの眼前には、彼らの影響を受けつつも、他ジャンルの音楽をも雑多に吸収して育ってきた新世代のバンドたち――例えばスリップノットやシステム・オブ・ア・ダウンなど――の背中が見えているのではないか? 90年代初頭にグランジの波をいち早く捉まえてみせた彼らならば、間違いなくとっくに意識しているはずである。大御所が若手の「背中を見る」というのも変な言い方だが、感覚としてはそうだと思う。
 
スリップノットのエンターテイメント性あふれる怒りも、SOADの叙情性の裏側に貼りついたコメディ・センスも、それ以前の純粋なメタル畑のバンドには見られなかったものだ。彼らの音楽には――SOADの“B.Y.O.B.”あたりに顕著だが――場面場面で喜怒哀楽が臨機応変に繰り出されてくる感触があって、それは何よりも哀しみの強調表現(とそれ以外の感情の排除)に重きを置いてきた80年代ヘヴィ・メタルにはあり得なかった。
 
メタリカを聴いて育った世代の強みは、メタリカを客観視し相対化できることだ。80年代から90年代初頭にかけてメタリカが作り上げてきたメタルを、彼らは尊敬の念を持った上で遠慮なく破壊し自分色に再構築することができる。そこに他ジャンルの要素を持ち込むことにためらいはないし、過度にデフォルメしようとさらに先鋭化させようと迷いはない。それは対象に一定の距離を持っているからこそできる技で、世代的に距離があれば対象化することは容易でありむしろ自然だ。
 
だが80年代メタルシーンの渦中にいたバンドには、当時シーンを牽引していたメタリカを相対化して捉えることは難しい。ましてやメタリカ本人ならばなおさらだ。自己を客観視することほど難しいことはない。だからこそ、『メタル・マスター』全曲再現ライヴやプロデューサーのリック・ルービンのアドバイスにより、初期の自分たちを客観視した上で今作の制作に取りかかったという事実は大きい。自己を客体化するには、そういった強引な手口がどうしても必要になる。このタイミングでそういう機会と人に恵まれたというのは、すでに大御所となったベテラン・バンドにはとても得難い貴重なことだ。
 
今のアメリカン・ヘヴィ・ロックの根底にある要素がメタリカである以上、メタリカがそこへ切り込んでゆくには、メタリカが過去のメタリカ自身を咀嚼しなければ闘えない。そのために必要な過程が今作であり、それはまだ咀嚼段階であるから針が振り切れていないのも無理はなく、だからこそ再びシーンへ殴り込みをかける再出発点としてふさわしい作品と言えるのではないだろうか。
 
メタリカが、いま新たなるガレージから出撃する。蟻地獄の底はまだ見えてこない。

 

 

bottom of page