悪戯短篇小説「河童の一日 其ノ八」
夏が来た。河童だって流れるプールが好きだ。
今日は茨城から泳いできた爺ちゃんと、遊園地のプールへ行った。遊園地へ行くと必ず子供たちが寄ってくるけど、握手をしてあげると皆あっさり引き下がってくれるので問題はない。手が思いのほかビチョビチョだからである。奴らは逃げると追いかけてくるが、握手してやると蜘蛛の子を散らしたように離れてゆく。この逆説は河童の人生、いや童生(ぱせい)を見事に象徴している。追いかけて何かを手に入れることなど、とてもできそうにない。
遊園地には3つの特大プールがある。一番人気はやはりウォータースライダーのあるプールだが、あれは河童の処刑台にそっくり、というか完全にパクッているので絶対に行きたくない。河童の死刑囚は、高いところから流し流され、うねりうねって血の池地獄に落とされることになっている。ちなみに流しそうめんも、同じ理由から大の苦手である。あのような公開処刑装置で喜んでいる人間は、本当に趣味が悪いと思う。
僕と爺ちゃんは、流れるプールへ行った。河童だからといって、特別な楽しみ方があるわけではない。ただ流されているだけで楽しいのが、流れるプールの唯一最大の魅力だ。
しかし一方で、ただ流されているだけでも笑われてしまうのが河童の運命だ。ここは「運命」と書いて「さだめ」と読んでもらいたい。今日も流されているだけで、多くの人に笑われた。それもこれも「河童の川流れ」などという、河童をディスることわざを作った輩のせいだ。
当然だが、河童だって意図的に流されることはある。川の流れと自らが目標とする進行方向が同じならば、わざわざ泳ぐ必要などなく、ただ流されれば良いのである。人間が下り坂で自転車をわざわざ漕がないのと同じことだ。それは苦しくも恥ずかしくもなく、むしろ気持ちの良いことであって、だから河童も流れるプールを楽しみに来る。
にもかかわらず、「流されている河童」はあのことわざのせいで終始嘲笑されるのである。こちらはすっかりリラックスして流れに身を任せる快感を味わっているのに、それを溺れていると判断されてしまう。
そしてさらに不可解なのは、百歩譲って河童が目の前で溺れているとして、なぜそれを見て人間が爆笑できるのかという点である。流される河童を前に、誰ひとり助けに来る者はおらず(いやそもそも溺れていないので助ける必要などないのだが)、それどころか心配や同情の表情を浮かべる者すらいない。この瀕死の状態をあざ笑われる哀しみ(いやだから瀕死ではないのだが)は、人間にはどうしてもわかってもらえないのだろうか。
――などと思いながらもそれなりに呑気に流されていると、マッチョなライフセーバーが飛び込んできて今日だけで5回も助けられる、という憂き目に遭った。こうなると助けるというよりも、もはやスポーツフィッシングでありキャッチ&リリースである。溺れていないのに助けられるほど迷惑なことはない。そんなにクソ真面目だから筋肉ばかりつくのだ。
無駄に助けられるくらいなら笑われたほうがマシだ。そんなことを考えながら着替えを済ませたところで、一緒にいたはずの爺ちゃんがいないことに気づいた。そういえばキャッチ&リリースされたのは僕だけで、爺ちゃんはコンスタントに流され続けていた。プールへ引き返すと、爺ちゃんがただひとり流れの止まった水面に浮かんでいた。驚いて駆け寄ると「先に帰っとき」と言われた。
「なんだ生きてんじゃん」と胸を撫でおろして真っすぐ帰ると、玄関でお母さんに「あら、遅かったわね」と言われた。そんなに遅くないのになんでかな、と思って訊くと、爺ちゃんはもうとっくに帰宅して風呂に浸かっているという。爺ちゃんは謎が多い。