『12枚のアルバム』/中原昌也
音楽を「良い」と褒めるのは簡単だが、実はその「良さ」にもさまざまな種類がある。
たとえば、「格好良い=良い」なのか「美しい=良い」なのか「面白い=良い」なのか「聴きやすい=良い」なのか「前代未聞=良い」なのか。それ以外にも評価基準はいろいろと考えられるし、そのスタンスは評者ごとにも違えば、音楽誌ごとでも違う。この中でもっとも多用されているのは「格好良い」という表現だと思うが、その中にも、美しさや面白さ、果てはルックスまで含まれていたりするからややこしい。そんなことを考えてしまうのは、この対談集の主役である中原昌也の音楽的趣味がまったく理解できないからで、しかし本書はだからこそ面白い。発行者の手による本書のまえがきには、こんなことが記されている。やや長くなるが、本質を見事に突いているので引用する。
「相変わらずではあるが、『中原昌也 作業日誌』に続き、数多くの固有名が登場する。そのほとんどが、とにかく脚注を入れなければ多くの人には理解不能な名前でもある。脚注を入れなかったのは作業が膨大になりすぎるというこちらの作業上の問題もあるが、できればこのわけのわからぬ音楽の海で溺れて欲しい、という願いの賜物である。整理も理解もできぬまま、見知らぬ場所に降り立つことの恐怖と悦びと胸の高鳴りを、本書で味わっていただけたらと思うばかりである」
「こちらの作業上の問題もあるが」という部分に猛烈な良心を感じるが、本題はそこではない。読者が本書を読んで感じるのは、まさにここに書かれているような「わけのわからぬまま感じる謎の悦び」であり、けっして「わからないことがわかるようになった」というお勉強的な納得の快感ではない。
この対談集は、中原昌也と対談相手の音楽評論家その他の人々が、それぞれ何かしらのアルバムを持ち寄り、それを聴きながら会話をするという形式で行われた計12回のイベントをまとめたものである。
そこで中原昌也のチョイスする音楽の基準は徹頭徹尾わからないのだが、ときどき彼の発言からその根拠らしきものが垣間見える瞬間がある。それはこの対談集を読むうえで待望の瞬間でもあるのだが、だからといって安易に共感できるわけではない。本書中もっとも面白いのは、初回の大里俊晴との対談で、容赦なく名言連発なうえ大里のツッコミ(とその放棄っぷり)も素晴らしいのだが、たとえば中原は、自分の持ってきたレコードをかけながらこんな話を投げる。
「なんでこれをレコードにしようと思ったんですかね? 全然わからないんだよね」
「説明してくださいよ。どういう時代背景があるんですか、こういうレコードを作ってしまうっていうのは」
「なんで駄目なんですか。いいじゃないですか。誰が買ったんですかね、こういうの。どういう売られ方をしたんですか?」
これらの中原発言からわかることは、彼は完成した音楽そのものではなく、その完成品から類推される作り手の動機というか心境というか、「何が作者をしてそれを作らせたのか」という点に、異常なほど興味を示しているという点である。それは彼の「創作者としての視点」であるということもできるが、それ以上に、「わからないことをわかりたい」という欲求に基づく興味であるように思われる。それはつまり、「たいていのことはわかってしまう」という悲しい事実の裏返しでもあり、だからこそ彼は血眼になって「わからないこと」を求めてしまうのである。そこには、身につけた知識をひけらかして得意顔になるオタク的優越感とは真逆の精神性が備わっていて、わかってしまうことが実はつまらなくて、わからないことがいかに面白いかという、本当の意味での好奇心にまみれている。彼の場合、文字通りその好奇心とは、「奇」なるものを「好」む「心」であって、それは何がアタリで何がハズレかわからなくなるほどの、膨大な散財と時間の浪費というリスクを要求する。世間一般で「好奇心」と呼ばれている(たとえばマスコミ受験で求められるような類の)ものの大半は、単なる「幅広い興味」という程度の、ノーリスクで浅薄なものでしかないのに対して。
そんな中原昌也のスタンスは、たとえば本書の中の、こんな発言に集約されるだろう。
「こういう世界もあるんだってことでは駄目ですか?」