無限増殖インティライマー
街中にナオト・インティライミが溢れている。
誰も彼もがインティライミのイミテーションつまりインティライマーに見える。ハットを被って袖をまくれば今日から誰でも立派なインティライマーだ。昔はジャケットの袖をまくっていると即座にシンゴ・ヤマシロあるいはマリック呼ばわりされたものだが、今や着ているものを問わず袖さえまくっていればインティライマーの一味として認識される。この暑いのに我慢強くベストを羽織ったり巻物にふんわり首を巻かれたりしてみるとより本物らしくなる。柄シャツを着る場合は前を開けて中のTシャツ柄をそれとなく見せることだ。
しかしだからといってインティライミ本人が「本物」かというとそういうわけでもなく、彼が街を歩いていたらたぶんインティライマーのひとりとしか認識できない自信がなぜかある。流行が服を着ているというのはたぶんこのことである。アムラーの大群の中を安室奈美恵が歩いていたら我々はそれを瞬時に安室奈美恵だとはっきり識別できるが、インティライマーの中に埋もれたインティライミを捜し出すことはよほどのファンでなければ至難の業だ。インティライミにとっての「本物」は「流行」そのものであって、インティライミという人間ではない。
この違いは簡単に言ってしまえば、「安室奈美恵は流行発信基地だが、インティライミは流行発信基地ではなく、受信する側に見える」ということかもしれない。とはいえ実際には流行をいっさい取り入れていないアーティストなど皆無に等しく、アムラー全盛期の安室奈美恵だって当時のトレンドをむしろ巧みに取り入れていたはずだが、それでも彼女は流行の発信者に見えて、インティライミは受信者に見える。
だが不特定多数に見える人間が不特定多数の人気を獲得するということは、けっして珍しいことではない。大衆の人気を得るにはカリスマ性が必要だと人は考えがちだが、そうでないタイプの人気者も結構な頻度で出現する。と言いながらその例がひとつも浮かばないのは、その類の人気者がまさに不特定多数に見えるからかもしれない。逆説的な話だが、集団に埋もれることでその集団の人気を獲得するタイプの人間がいる。自ら積極的に埋もれたか結果的に埋もれただけなのかは別にして。
そんなインティライミ的人気の秘密は「そこにリアリティがあるから」だといえば説明は簡単だが、事態はそれほど単純ではない。何しろインティライマーは無数にいるのに、実際のところインティライミはひとりしかいないのである。ここにリアリティというものの不思議がある。
「不特定多数」に見えるのに「その他大勢」ではなく、結果論的には「ワン&オンリー」であるという絶妙なさじ加減。この「さじ加減」という言葉ほどカリスマから遠い言葉はないが、別にカリスマを目指さずとも結果的に人気者であればいいのだとすれば、それで問題はないのだろう。むしろアーティストにさじ加減を求める受け手が増殖しているように見えることのほうが、よほど恐ろしいかもしれない。
いま見たいのはとにかく、インティライマー同士がすれ違うシーンである。お互いが相手をどう認識し意識するのか。仲間意識が生まれるのか同族嫌悪による敵対意識を抱くのか。もしも接触でもしようものなら、さらに欲を言えばつかみ合った状態で階段から転げ落ちたりしようものなら、2人だけで縄文時代へタイムスリップしたり、2人の中身が入れ替わったりする可能性も拭いきれないではないか(偏見の典型)。
もちろん、インティライマー2人が入れ替わっても区別はつかないので別段問題はない。