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『私のいない高校』/青木淳悟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ストーリー皆無。人格不在。もちろん作者の「言いたいこと」など何ひとつ書かれてはいない。史上最も国語入試問題に不向きな小説の誕生。

しかし何気ない描写がいちいち面白く、だがそこに物語的な面白さは一切ないと言い切れるのが凄い。描かれているのはただただ、「日本の高校にやってきた外国人留学生の日常」。それ以上でも以下でもない。さも山場っぽく修学旅行が描かれるが、そこには突然の告白も熱い友情もなければ「外国人から見たニッポン」といった類のいかにもな発見も別にない。

その面白さの質は、まさに我々が日常生活(学生生活)の中で、自分だけにとって面白いと感じる個人的な感触に満ちている。それが極めて平坦に平板にそして意識的に、強弱も緩急も極力排したフラットな文体で淡々と描かれるのみ。修学旅行のラスト、担任教師が口にする「無事、家に辿り着くまでが――」の常套句に代表されるように、「いかにも」な言動と日常的シチュエーションの連続は、まったく小説を前に進めようとしない強い意志に貫かれている。ここまで「物語」という推進力のない小説は珍しい。通常、小説を読み進めるモチベーションとして当然存在すべき「続きが気になる」という感覚が、この作品からは微塵も感じられない。予感も予兆もない世界。正直、僕は中途で二度挫折し、三度目でようやく読み通せた。だがそれは「面白くないから」ではまったくなく、むしろ「この先もいま読んでいる箇所の面白さが永久に続くだろう」という作品への信頼感からくる妙な安心感ゆえだったような気がする。

人が物語の先を急いで読みたがるのは、通常「この先もっと面白くなるはずだ」という期待を推進力にしている。だがそれは裏を返せば、「この先よりいま読んでいる箇所は面白くないはずだ」という確信に基づいているとも言える。そういう意味で、小説には普通面白い箇所とそうでもない箇所の「波」があるというか、むしろそれを前提として、振れ幅を効果的に利用すべく作られているものが多いが、本作にはその「波」というものがまったく存在せず、「凪」のまま最後まで平行移動する。だが「凪」の状態が充分に面白いのだから、それでなんの問題もないどころか、高いレベルをキープし続けるある種の理想型とも言えるわけで、全体を通してフラットなぶん精度のバラつきがない。結果として、底辺から頂点へと向かう上昇時に湧き上がる一時の興奮ではなく、虚空を漂う浮遊感が継続するタイプの小説になっている。もちろん「起承転結」などというものは知らぬ存ぜぬな顔をして。

「平坦な日常の描写」という感触はいかにも日記に近いのだが、まったく関心の持てない、キャラクター性をあえて排した人物の日記を、人は普通面白く読めるものではない。だがこの小説に描かれた心底どうでもいい人たちの学園生活は、読者にとってどうでもいいままに面白い。どうでもいい人のどうでもいい話を聞いて興味を持つことは稀だが、たとえば時にファミレスの隣席で交わされている会話が想定外に「ある意味」面白いことがあるように、まったくないというわけではない。たとえば見るからにモテなそうな先輩とそれより少しはモテそうな後輩という男二人組がいるとして、最近フラれて落ち込んでいる後輩に先輩がドヤ顔で投げかける「大丈夫。女は星の数ほどいるさ」という台詞が持つ一周した面白さ。いやそんなシーンはこの作品にはもちろん出てこないのだが、そういう類の「あちゃー」と言いたくなるようなどうでもいいままに滑稽な台詞が、本作には不意にあちこち登場する。そしてそんな稀に遭遇する「なぜか面白い場面」が連続する世界があるとしたら、やはりそれはフィクションの中でしかあり得ないのかもしれず、この小説が描いているのはいかにも平凡な日常に見せかけて、実は日常のふりをした異常な世界だとも言える。

本作の中心視点人物である担任教師(しかし主役とも語り手とも言えない)は、いかにも先生らしくすべての言動に意味を後づけしたがるが、それはむしろ徹底的に安っぽく、アイロニーとして描かれる。そもそも修学旅行というもの自体、教師側の目論見は文字通り「修学」であるにもかかわらず、多くの生徒にとってそれは第一に「遊び」なのであり、そこに「学び」があるかどうかは結果論にすぎない。そして読者の中にも、教師のように「有意義な何か=学び」を求める人と、生徒のように「面白い何か=遊び」を求める人がそれぞれいるはずで、それは教師や学生が「修学旅行」という言葉をどう捉えているかと同じように、「小説」という言葉をその人の中でどう定義しているかによるだろう。そしてこの小説は明確に、「遊び」を第一に求める後者に向けて放たれている。そこに学びがあるとすればそれは作者も意図せぬ何かであって、作者の意図した何かではあり得ない。

ちなみに美しい装丁から感じられる「切なさ」の感覚は皆無であり、これもむしろ安易な感傷ばかりを求める昨今の小説に対する皮肉であると受け取れる。少なくとも、即物的な「感動」や「泣き」を求める向きにはまったくお勧めできない小説であることは間違いない。もちろん某かの「意味」や「明日へのメッセージ」、ましてや「生きるヒント」を欲しがるビジネスライクな横着者にはもっとお勧めできない。『金八先生』と『深イイ話』を交互に繰り返し観るべきだ。しかしそれ以外の、まだ見ぬモヤモヤとした面白さを求める勇者には強くお勧めする。

 

 

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