『脱走と追跡のサンバ』/筒井康隆
とにかくすべてに必然性があって、一切の無駄がない。あるいはすべての要素が、まったく無駄に浪費されているように見える。それが筒井康隆の小説であり、エンターテインメントと純文学の融合ということである。特にこの作品は、その次元が高い。
すべてに意識的であるということは、なんて精度と密度が高く、息苦しいものかと思う。個人的には何につけ精度と密度を偏愛しているが、さすがにここまでのレベルとなると、そこにはある種の抵抗感も伴う。物事に対し意識的であるということはつまり、極度に技巧的であるということでもある。その技巧とはもちろん、「良い曲を上手く演奏する」というような生半可なレベルではなくて、「最高の曲をあえて上手く聞こえないように、たとえば68点に聞こえるように演奏することで、68点の音楽にしか出せない良さを表現する」というような類の恐るべき水準で駆使される。たとえばこんな文章。
《だが、事件に関しても、また人物に関しても、断定することはできない。それがおれの弱味なのだ。
それが、おれの弱味なのである。》
とても読みやすく平易な文章でありながら、異様に練られている。句読点によるリズムの作り方などは当然だが、最後の反復の部分など、実は相当にギリギリのことをやっている。同じ事を二度言うことは通常ならば無駄を生むが、ここではまったく無駄だとは感じられない。かといって歌の歌詞のように、リズムを整えるためだけに繰り返しているわけでもない。もちろんリズム面と、あと強調の意味はあるだろうが、それだけでなく、何かしら必然性のある反復というか、別の意味がここには生まれているように感じる。
それは無理矢理に説明するなら、「こんなどうってことない文章を、あえて繰り返すことで生まれる何か」ということなのだが、もっと言えば、「たいしたことないことをあえて重要げに見せることによって、それがもっとたいしたことでないように見せる」というような「茶化し」の効果であるように見える。
だが問題は、この文がのちに二度三度と、若干形を変えたり変えなかったりしながら、ことあるごとに繰り返されるということだったりする。その反復によって、今度はまったく逆の効果が生まれてしまうのだ。つまり、「たいしたことないことを重要げに見せることでよりたいしたことでないと感じられたことを、さらに繰り返すことによって、実はものすごく大事なことなんじゃないかと感じさせる」という効果が、読み進めるうちにじんわり沁みてくるのだ。つまりこれは、きっと重要な文章なのである。
こうした二重の効果や逆転現象は、文章のレベルだけでなく、実は本作のテーマでもあったりする。時間、空間、人物など、あらゆる要素が変転したり入れ替わったり出たり入ったり増殖したりしながら、すべてが見事な空転を見せる。そのめくるめく展開は脱線につぐ脱線のようにも、ジェットコースターのようにうねりながら進む迷いなき一本道にも見える。おそらく作者は、最初から答えの出ない問題と向き合って書いているのだが、その割に狙いははっきりしていて、ゴールが見えて書いているように見える。「絶対に答えの出ないことを書く」というのは純文学的な姿勢だが、「ゴールが見えている」というのはエンターテインメント的な姿勢である。普通その二要素は矛盾するが、本作においてそれは絶妙なバランスで成り立っているように見える。
その狙いがはっきりしすぎているというか、あえて手口をあからさまに見せる(=それをパロディとして芸にしている)という極度に技巧的なスタンスが、何かしら読者を追い込み窮屈にさせるが、その手つきの鮮やかさでもってすべてを凌駕してしまう手腕が、それを上回っている。
それは音楽で言えば、たとえばDREAM THEATERのように、アドリブっぽいソロまで実は徹底的に構築してしまう技巧派プログレのようで、そこにあざとさを感じるか芸を見るかで、受け手にとって生理的にありかなしかが意外と明確に決定してくるような気がする。
本作は全体を意識したエンターテインメント的な作りでありながら、文章のレベルは異様に高い。基本的に読みやすいがあっさりと読み飛ばせはしない。スピード感はあるのだが結構読むのに時間がかかるし、時間をかけて一語一語噛み締める価値のある文章が並んでいる。どこまでもあべこべで、わかりやすくてわかりにくい小説。
わかりやすくて、わかりにくいのである。(意味ありげなだけで重要でない反復…)