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書評
「文章を読んで文章を書く」という行為の、この元も子もなさはいったい何事だろう。学生時代によく宿題で出された「読書感想文」なんてまさにこれの極みで、そのほとんどを課題図書のあらすじで埋め尽くした覚えのある人は少なくないはずだ。「だって本当に書くべき重要なことは、筆者がもう本文の中で書いているに決まっているじゃないか」それは至極真っ当な意見に聞こえる。しかしそんなことは全然ない。執筆は筆者のものだが、読書は読者のものだ。
書き手はものを書くときに、ある角度から書く。全方位的に書くということは基本的に不可能であって、そこには必ず書き手の視点、つまり独自の角度というものが存在する。
それと同じく、読者もものを読むときに、ある角度から読む。そういうつもりはないかもしれない。しかし最近はSNSなどで特に顕著だが、同じ文章を読んで喜ぶ人と怒る人がいるというのは紛れもない事実だ。それは読む角度が人によって違うからである。
言葉が言葉のまま相手に通じるというのは、一種の幻想だ。「美味しい」と書いた言葉が、どのような「美味しさ」を受け手に感じさせるかは、千差万別である。ある者はメロンの味を思い浮かべ、ある者はくさやの味を再現する。僕が言っている「青」と、君が思い浮かべている「青」は、まったく違う色かもしれない。実のところ言葉には、それくらいの力しかない。いや言葉には、むしろそういう力がある。
だから「文章を読んで文章を書く」という行為は、けっして元も子もないことなどではない。その文章に、著者とは別の角度から光を当てることで、立ち上がってくる新たな魅力がある。
本は読む人によっても、読む時期によっても違う顔を見せる。文章に隠された色々な表情を捉えていきたい。
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