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これは魔球か絶好球か!? 「変化球としてのスローボール」がもたらす計画的混沌

『OCTAHEDRON』/THE MARS VOLTA

 

大いなる期待を胸に、プレーヤーにCDをセットする。キュルキュルと読み込まれ曲がはじまるまでの刹那、意味深なジャケットに目を落とす。いつものことだ。そこに描かれているのは、裸婦とザリガニとにんにく。ついでにフルーツも盛り沢山。あと空中にサムシング。さっぱり意味がわからない。いつものことだ。なぜかにんにくが妙に気になる。明らかに大きすぎる。しかし鼻を近づけてにおいは嗅がない。そんな分別ざかりに自己嫌悪。いつものことだ。……あれおかしいなまだはじまらない。音楽が。いやこれ、もうはじまってるんだろうか? プレーヤーの液晶表示に目を落とす。しっかりと時が刻まれていることを確認。ヴォリュームもいつも通り。つまり、はじまっている。そういえばうっすらと何か聞こえるような気もする。しかし今日はあいにくのお天気。雨風の鳴る音かもしれない。と思いきや本気ではじまっているのだと気づく1分30秒すぎ。イントロダクション的なゆったりとしたはじまり。いつものこと…ではないけれど、そう思うのは前作がドカンと来るはじまりだっただけで、それ以前はこんな感じだったかも。そうこれはしょせん序章。1曲目終わりそう。てことは2曲目から本気出すパターン? さあ2曲目。冒頭のドラムがいい。そしてそこから一気にスピードアップ…と思いきや来ない。遅いまま。いつもと違う。ジャケットはEL&Pの『タルカス』みたいだな。まだジャケットを見ている。見る余裕がある。いつもならとっくに手放している。自然に3曲目4曲目。おとなしい。先生に怒られた子供くらい。少しくらいはしゃいだって大丈夫だよ。先生、キミのこと嫌いなわけじゃないから。しかしおとなしい。バラード? アンビエント? ひたすら続く酩酊感。「あれCD間違えたかな?」とは思わない。歌メロもギターフレーズも間違いなく彼らのもの。ただガツンとは来ない。急加速急ブレーキで重力に首を持っていかれるあの瞬間が来ない。そういや当初はアコースティック・アルバムになる予定だったとか言ってたんだっけ? そういうこと? なら仕方ないか、と気持ちを整理。と思った直後にガツンと来る。5曲目でようやく疾走。これだよこれ。遅ればせながら。猛烈なカタルシス。待たされたぶん余計に。何これ調教? 気持ち整理して損した。6曲目もちょっとだけその余波。だけど7、8曲目でまた静寂。そして終わり。え、もう終わり? トータル50分強。いつもと違う。曲数多かろうと少なかろうと、時間めいっぱいのいつもとは。

「なんだこれは?」

ザ・マーズ・ヴォルタの最新作『八面体』を一聴して抱いた感想である。だがこれもまた、いつものことなのだ。過程はまったく違うのに、結果として受ける印象はいつもと同じという不思議。この違和感こそ、彼らの音楽でしか味わえぬもの。マーズ・ヴォルタを聴く理由。未整理の宇宙へと放り出される聴後感。

いやしかしどうなんだろう? どう聴いたっていつもと違う。とてもじゃないがいつも通りとは言えない。ではこれをなんと言えばいいのか? 「進化」「新境地」「到達点」「再出発点」「実験的プロセス」「問題作」「意欲作」…どれも当てはまるような気もするし、もれなく的はずれなようにも思える。そして聴き手をそんな混乱状態に陥れることこそ、彼らの狙いであるようにも。

これまで彼らの音楽は、「混沌」という言葉で語られてきた。そしてその言葉は、間違いなく適切だと思われた。変拍子や緩急のシフトチェンジを頻繁に繰り返す音楽性、示唆的な歌詞、一般フォーマットを無視した長尺曲、荒れ狂うライヴ・パフォーマンスなど、「混沌」を裏づける明確なイメージが提示されていたからだ。その「混沌」の様相には、オマーとセドリックの「ダブルアフロ」な髪型さえ荷担していたかもしれない。いや本当に。それくらい彼らの「混沌」には隙がなかった。

つまり彼らに対して聴き手が抱く「混沌」のイメージは、その言葉に反して非常に「安定」していたということだ。それはもちとん、期待通りということでもあり、少なからず予定調和という意味でもある。当初はある種の「意外性」を提示することができたとしても、やがてその「意外性」を連発する状態になれば、それはもはや意外ではなくなり「安定」を獲得する。「安定」を「定着」にまで踏み固めてヒット基盤を築き上げるアーティストもいれば、「安定」を嫌がって次々と音楽性を変えてゆくアーティストもいる。前作『ゴリアテの混乱』を全米3位に送り込んだマーズ・ヴォルタが本作で選び取った道は、明らかに後者であるように思う。

そもそもが「意外性のうえの意外性」という話だからややこしい。マーズ・ヴォルタのデビュー当時、彼らの音楽には充分に意外性があった。それは「何が飛び出すかわからない」といった純粋な意外性であり、シーンに相当な衝撃を与えた。初登場時のインパクトとは主に、「当時の音楽シーンに与えた衝撃度(意外性)」で測られる。それは同時代の人間がその状況下で判断する意外性であって、物さしはただ一つで足りる。

しかし純粋に音楽の衝撃度で評価されるのは、初登場時だけなのである。それ以後は「自身の過去作との比較」というもう一本の物さしが終始つきまとう。その作品自体は単体で聴けば充分に意外性のあるものだとしても、過去の作品と似た手口を多用すればそれは「意外性がない」と批判される。他の誰の真似でもない、過去に自分自身が発明した手法だとしても。それはいつの時代も、継続的に活動を続けるアーティストの宿命である。過去の作品群との比較とはつまり、作り手であるアーティストにとっては、過去の自分自身との比較でもある。自分自身に対して何らかの限界を感じ作風を転換する季節が、アーティストにはいつか必ず来る。

だからといって、前作までのマーズ・ヴォルタがマンネリズムに陥っていたと批判しているわけではない。それどころか、前作『ゴリアテの混乱』は彼らの最高傑作だと思っている。問題は、意外性の基準をどこに置くかということであり、またそれをどのレヴェルまで求めるかということである。「前作までに比べて圧倒的に完成度が高い」というのもまた意外性である。『ゴリアテ~』には、有無を言わせぬ、自身の過去作をまとめて蹴散らすだけのクオリティが備わっていた。

マーズ・ヴォルタの音楽とは、予測不能な展開がもたらす意外性の連続である。だがすでにそれがお馴染みとなっている段階においては、「予測不能な展開」が来るのはもはや意外ではない。依然として「次にどう来るかわからない」ということに変わりはないが、「わかりやすい展開は来ない」ということはわかっているからである。完全に的を絞れるわけではないが、次に変化球が来るというのはわかっている。

「変化球」という言葉に引っ張られて、あえて野球に例えてみようか。「次にストレートが来ない」というのがわかっていれば、打者はそれだけでタイミングを合わせるのがかなり楽になる。受け手側にその(変化球が来るという)心の準備ができているか否かは、いざそうなったときの衝撃度に大きな違いを生む。マーズ・ヴォルタは、常に変化球を待たれている投手(送り手)である。それが無意識に変化する天然のクセ球ではなく、狙って投げている変化球であるというのは、パートごとバラバラにレコーディングしてから編集で組み上げていくという作曲過程からも明らかだろう。

だとすれば、そんな「変化球を待たれている」状況に対する「意外性」とはつまり、「ストレートを投げる」ということになる。もちろんここで言うストレートとは、「まっすぐである」というだけの意味で、「速い球」という意味ではない。そういう意味で本作は「遅い直球=スローボール」であって、その遅さにはやはり意外性がある。まっすぐさを強調したいのならば、ただひたすらパンキッシュに疾走する作風を選ぶこともできたのだろうし、前作にはややそういう感触があった。豪速球ならば空振りを取れるが、遅い直球ではよほど状況が整っていないと難しい。しかし前後の配球により、「絶対にスローボールが来ないシチュエーション」を作り出せれば、それは不可能ではない。だがそんな状況は、滅多に用意できるものではない。待たれれば確実に長打をくらうスローボールをあえて投げる機会など、そうそう訪れるものではない。

あるいは本作の制作過程において、バンドの指揮官であるオマーは、今こそがその時期だと判断したのかもしれない。なにしろ投げられるときに投げておかねば、一生投げられないボールかもしれないのだ。スローボールで三振を取るというのは、投手にとってとてつもない快感であるという。

今後のマーズ・ヴォルタが、どういう方向性を取るのかはわからない。本作が、今後への鍵を握る一枚なのか、キャリアにおける例外的な特異点なのかも。だが本作は、このタイミングでのみ成立する作品であると思うし、そう信じたい。やはり持ち前の疾走感(というより「奔走感」?)と、それに伴う緩急に乏しいマーズ・ヴォルタは寂しい。美しさより激しさを。酩酊感より焦燥感を。できるならばどちらとも。

たしかに、この作品から感じとれる成果は少なくない。スピードを抑え、テンポを一定にすることにより、セドリックの歌はこれまでになく際立っている。劇的展開に頼らずとも、メロディの質で楽曲を聴かせる力があることも証明された。シンプルな楽曲だからといって単調なわけではけっしてなく、曲中に充分なスペースが用意されていることにより、間を生かした楽器陣の空間演出能力が開花している。独自の変態性も一定の範囲内で最大限発揮されてはいるし、逆にスピード制限がそれを際立たせている部分もある。そういう意味では、細かく見れば依然としてこれは変化球なのかもしれない。唯一の疾走曲である5曲目“コトパクシ”を「旧来ファンへのサービス曲」と捉えるか、あるいは「その重要な1曲のために壮大なイントロ4曲とアウトロ3曲が用意されている」と考えるかで評価は大きく異なるだろうが、後者と考えればアルバム全体の完成度は高いと言える。そこにはたしかに、大きな意味での緩急も存在している。

しかし。だがしかしである。それでもなお、マーズ・ヴォルタには、一触即発急転直下のダイナミズムを求めたい。ミニマムではなく、マキシマムの彼らがいい。本作で獲得した様々な可能性の翼は、次作におけるさらなる飛躍の大いなる力になるだろう。そんな希望的観測に酔いながら、本作を倍速で聴いたらどうなるか、試してみたいと思っている。思うだけ番長で、たぶんやらない(というかできる機材を持っていない)けども。

 

 

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